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延命措置

 客が十人もいたら窒息してしまいそうな狭い店内。
 色とりどりにごちゃごちゃした商品棚。
 そのいちばん隅で、安っぽいプラスチックの瓶が口を開けている。
 わたしがそこからてのひらいっぱいのキャンディを掴み取ると、
 店員のおばさんが、おっ、という顔をした。

「それ好きなんですね」
「えへ、そうなんです!」

 なんてね、嘘だよ、と内心では唱えていた。
 駄菓子屋に来たのだってはじめてで、ほんとうはキャンディの種類だってよく知らない。
 でも、元気に答えて、わたしはキャンディをおばさんに差し出した。
 三百いくらとか数字を言われて、財布から小銭を抜き出す。
 ぎりぎり足りる金額があって、かすかに安堵の息をつきながら、コインを手渡す。
 もう残った所持金ではガムの一個も買えない。
 いっそ中途半端に余らせたことを複雑に思うまま、財布をポケットに押し込んだ。
 そうしてその手にキャンディを握る。
 手の中のお菓子はあざやかで、店内のちゃちな蛍光灯のもとにきらきらして見えた。

「また遊びに来てくださいね」

 カウンターに背を向け、すぐ目前の出口に踏み出すと、そんな声がかかった。
 あたたかい声だ。ぜんぶ受け入れてくれそうな。
 そう思うとふいに涙ぐんでしまったから、振り向かずに、できるだけ快活な笑い声を出した。

「あはは、ありがとうございました」

 ありがとう。
 そう言って店を出ると、日の暮れかけた薄暗い肌寒さがわたしを出迎える。
 何に対しての礼だろうな、とじぶんでも思ったものだ。
 そして、安易にはいと答えなかったじぶんを誉めてもいた。
 もう会わないひとと、また会う約束なんかできない。

 キャンディを握った手の甲でにじんできた涙を拭い、足を早める。
 なんてことない住宅地は、ぽつぽつと灯りがついて、だれかの笑い声がこだましている。
 ちいさなこどもたちの自転車がわたしを追い抜いてゆく。
 彼らがあの駄菓子屋の常連だったりするのかな、と思う。
 きっとこれからも、きみたちはあのあたたかな場所で、きらきらしたお菓子を買うのだ。
 それがいい、ぜひそうしてくれよ、なんて自分勝手に念じて、自分勝手に笑顔になった。

 じゅうぶんに住宅地を離れ、他人行儀な駅前で、わたしはやっと立ち止まることができた。
 早めすぎた足が痛んで、息がきれている。
 胸が苦しいのも、おおかた早歩きのせいにちがいない。
 じぶんの運動不足を呪って、深呼吸をする。
 ひとつ、ふたつ。
 寒風を吸った喉がやけに冷える。
 結局、涙だけ抑えても、ずっと泣いていたのだ。
 いつの間にこんなに泣いてしまうようになったんだろう。
 なんとなく過った疑問は、深く考えられるまえにふわふわ霧散して、消えた。
 駅前だけのネオンが、お菓子といっしょにきらきらしていたから、見いってしまったのだ。
 ふと、握ったままだったキャンディをネオンに透かし見る。
 きれいだなあ、とちいさく声に出す。
 一個40円の幸福を手に、遠く長く往来の喧騒を聴いた。
 壁際にぼうっとしているわたしを、道行く誰一人も気にしない。
 ずっとここに居たいような気がしたけれど、ふと車が過って冷たい風にあおられると、急に思考が反転する。
 あれ、わたしは、どうしてこんな寒いところに突っ立っているんだろう――、
 そうだ、行かなければならない場所がある!
 とたんに気持ちが急いた。
 往来に歩みだして、駅の階段を駆け上がる。
 落ち着きかけた息がまたすぐにきれて、胸がずきっと痛んだ。

 ICカードの中身もできれば空にしておきたいが、それを狙ってやるのはちょっと難しい。
 そんなことを思いながら乗り込んだ電車で、わたしはずっと遠くへ行くのだ。
 実は遠くもない、都心のぐちゃぐちゃした路線を乗り継いで一時間ほどの町だけど、
 とにかくそういう気分だから、わたしにはそこが「ずっと遠く」だ。
 あるいは、「世界の果て」と言ってもよかった。
 ――そこはわたしの故郷だ。
 なんの目立ったところもないベッドタウンで、こどもが多い。
 ちょうどあの駄菓子屋のある住宅地みたいな光景がずっとひろがるような所。
 わたしのいた頃はそうだった。
 ここ何年も行っていないから、景色は変わっているかもしれないけれど。

 携帯で時刻を確認する。
 午後五時が近づいていた。
 あの町でこどもたちが家路につく時間だ。
 そう思うだけでなつかしいような気がして、また喉が熱くなる。
 わたしはそこに紛れ込んで町を歩くのだ。
 きっと他の誰もと同じ、たあいもない笑顔で。
 できるだろうか。できると信じたい。
 泣きながらお菓子を買った。たぶん少しも怪しまれずに。
 そんなことだって、わたしにはできたのだから。

 ――もう考えるのはやめよう。
 誰からも怪しまれないようにしよう。
 電車の中で震えてしまうようなことがあったらいけない。
 そうして思考を放棄して、わたしは無心に徹して外の景色を眺めた。
 ときおり乗り換えを挟みながらも、ずっと眺めた。
 それはぜんぶが遠ざかっていく光景だ。
 わたしが、
 わたしの見ているぜんぶが、
 わたしのおぼえているぜんぶが、
 「世界の果て」へ向かっているのだ。
 少しだけ高揚した。
 満ち足りた気分になって、まだ痛む胸を押さえた。

 やがて電車はわたしを最果てに運んだ。
 帰宅ラッシュのはじまった駅はがやがやして、たくさんの人のにおいがする。
 人並みをすいすい泳いで、わたしは勝手知ったる構内改札を抜ける。
 床のタイルが目に飛び込む。
 ああ、この色、この形だ。変わっていない!
 あの頃のわたしはいま以上に俯きがちだったから、いちばん覚えているのがそれだった。
 無性にうれしくなる。
 はたから見れば、ひとりで俯いてにやにやしている変な奴だ。
 そんなことも、もうどうでもよかった。
 ここは世界の果てなのだから!

 わたしは軽いステップを踏みながらターミナルへ降りていって、バスに乗った。
 昔はよく乗ったバスだ。車内アナウンスだって、ぜんぶおぼえている。
 ぜんぶおぼえていることを思い出したのはたったいまだけど。
 まだけっこう忘れていないんだな、と、そう、それがなによりもうれしいのだ。
 がたがた乗り心地の悪いシートに座るわたしはすっかりにやにやして、不審者だった。
 ついさっきまで怪しまれないようにとあんなに気を使ったのが嘘のようだ。
 ちょっと離れたところにいるこどもに奇異の目で見られながら、バスに揺られた。

 終点駅、降車してすぐ肌寒さに身を震わせた。
 いよいよ日が沈んで、あたりは夜色をしている。
 それでも、ここがわたしの故郷だということは、痛いくらいに感じた。
 前は白熱灯だったあの街灯、もうLEDになってるなあ、とか、あの壊れそうだったフェンスはさすがに直されてるなあ、とか。
 そんな思考がいっきょに頭を埋め尽くしたのだ。

「かえらなきゃ」

 寒風の吹きさらす秋のバス停で、わたしは、そう声に出していた。
 午後六時。もう門限だ、だからかえらなきゃ。もっとあたたかい場所へ。
 導かれるように歩き出す。
 わたしの家は、このすぐ近くなのだ。
 アスファルトを踏みつけた。
 たぶん、昔より新しい舗装になっていた。

 そうして、時間の経過を物語るすべてが、
 いつしか、わたしをなつかしさから遠ざけた。
 昔のままではないことが、どうしても、わたしをこの町から追い立てる。
 いろんなことがあってここを離れた。
 ずっと遠くで、何年も過ごしていた。
 その現実を、この町はけっして否定してはくれない。
 わたしがいくらこどもみたいにお菓子を買って、
 こどもみたいな時間にかつての家路を歩いたとしても。
 けっして、あのころのようには戻れない。
 戻れないのに。
 わかっていたのに、ここまで、来てしまったから。
 ――もう帰れないな。
 そんな思考がよぎる。
 ――違う。わたしはいまから帰るんだ。
 ――どこへ?
 ――過去へ。

 頑なに、思考を振り払って家路を急いだ。
 ずっと急いている足がいよいよ痛いが、痛みが思考を奪ってくれるだけありがたい。
 気づけば小走りになって、数分もすると、かつての我が家が見えてくる。
 二階建ての一軒屋だった。
 庭付きで、ちいさな物置があって、玄関前には秋桜が咲く。
 いまになって思えばそれなりに裕福な暮らしをしていた。
 ちらっと、こそこそと、わたしはその家のすがたを目におさめる。
 秋桜はやっぱり咲いているし、物置も変わらずあって、窓から灯りが漏れていた。
 いまにも、ただいまと言って玄関を開けたくなる。
 が、わたしはけっして家の正面には近づかなかった。

「よかった、まだ、元気に暮らしてるんだ……」

 祈るように、数秒間だけ目を閉じた。
 かつての家族が、きっとそこにいる。
 だから、せめてもの幸福を。
 勝手に家を出て、勝手に安い賃貸で困窮して、勝手にいろいろ考えて、勝手に戻ってきた。
 合わせる顔はない。
 目を開けると、わたしはそのままきびすを返した。

 向かったのは近所の湖だ。
 こどものころ、立ち入り禁止の札を無視してフェンスを越えて、よく遊んだ場所だった。
 あのころ仲の良かった鴨のすがたを探すがどこにもない。
 当たり前か、と、深い息をつく。
 長く、期間が空いたのだ。
 わたしはほとんど大人に近くなって、
 白熱灯がLEDになって、
 壊れたフェンスが直されて、
 道路が舗装し直されて――
 それほど経って、結局わたしはどこへも行けなかった。
 心を、ずっと、この町に置き去りにして。
 現実感のない日々を送って、なんやかんや苦しむうちに、徐々に過去を忘れていって。
 こわくなった。
 このままぜんぶ忘れたなら。
 じぶんの心の在処すら忘れてしまったなら。
 わたしはずっと地に足のつかないまま、貧しい暮らしを漂うのだろうかと。
 それがこわくなったのはもうかなり前からで、
 時間が経つほど、忘れてゆくほど、ふくらんでいった。
 積み重なった恐怖が、ついにあふれてしまったのだ。
 いつからか、ふいに泣き出してしまうことが増えた。
 ひとりになると特に、気を抜いたとたんうずくまって、動けなくなる。
 泣いて、眠くなって、ぼうっとしているうちにまた泣いて、あえいで、疲れはてて。
 それが、毎日。
 人前では、さいわい、悟られないように振る舞えるのだけど、さいきんではそれも難しくなってきた。
 人前でも、変に笑ったり、変に泣いたりしてしまうのだ。
 でも、じぶんが勝手に引き起こしたぜんぶで、
 勝手に苦しんだのだから、きっと、誰にも頼ってはいけない。
 だから、もう、誰にも気づかれないうちに、忘れてしまう前に。
 ずっと遠くへ行きたいと、思った。

 わたしは、ここへ、死ぬために来たのだ。

 寒い夜だ、こんなところで、もちろん誰のすがたもない。
 静かに息をして、靴を脱ぐと、足先からどんどん身体が冷えてくる。
 水のきわに立つと、ふっと胸の痛みが消えてゆく。
 やっと終わる、やっと――!
 叫びだしたいほどの歓びがある。
 もう何も悩まなくていい。
 偽らなくていい。笑わなくていい。泣かなくてもいい。忘却に怯えなくていい。家賃を気にしなくていい。食を抜いて服を買わなくていい。気づかれないよう繕わなくていい。明日のために苦しまなくていい。ふいに過去をなつかしんで息を止めなくていい。家族の誕生日が思い出せなくていい。常に過去への罪悪感にとらわれなくていい。息をしてもいい。息をしなくてもいい。
 他にももっと。
 ぜんぶが赦される。
 これまでとは真逆の、うれしさからくる涙で、暗い視界がにじむ。
 どんなに寒い場所にいても、この胸のあたたかさにはきっとかなわない。
 そう確信さえしたのだ。

 足を踏み出そうとした、
 刹那、
 その動きで、ポケットの中身が、がさがさと鳴った。
 ぴたりと、足が止まる。
 胸を満たした歓喜もなりをひそめる。
 ポケットを確認すると、そこには、

 駄菓子屋のキャンディが。

「……あ、」

 認識する。
 そのたった一瞬で、息苦しさがもどってくる。
 胸が痛む。寒さが身を打つ。
 思い出す。
 残り数円の所持金、ICカードの残金、駄菓子屋のおばさんの明るい声、車内アナウンスなんて今日まで忘れていたこと、自転車で駆けるこどもたち、
 それから、『何故キャンディなんか買ったのか』。

 その場にうずくまった。
 呼吸が、上手にできず、抱えた膝にぼろぼろと涙が落ちた。
 頭がまっ白だった。
 いつも通り、昨日も、一昨日も、その前も、誰もいない安っぽい部屋の片隅で、こうやってあえいでいたんだ、それだけ思って、またか、まだ続くのかという辟易が、絶望が、冷えた手を握り込ませた。
 なんで、なんでだろう、なんでこんなことしたんだろう、ほんとうに、本気で、ぜんぶ終わらせたくて、苦しくて、明日がきて、どうでもいいことに四苦八苦して、またひとつひとつ大切なものを忘れていって、泣いて、無理に笑って過ごすくらいなら、いっそ、過去に戻って、忘れたくないぜんぶを抱いて死のうって、決めたはずなのに!
 わたしは。
 わざわざ。
 未練を残すために、買った。
 せっかく、有り金をほとんどはたいて買ったお菓子だから、
 食べ終えるまではもったいなくて死ねないよねって、
 そう、そう思って、買ったんだ。
 時間がかかるように、店でいちばん大きなキャンディを、できるだけたくさん。
 そうやって、死ぬのを、後回しにするように。

「なん……で……」

 おかしい、おかしいよ。
 生きたいなんて思ってない。
 生き続ける限り、時間が止まらない限り、ずっと苦しまなければならないのに。
 どうして。

 夜が更けるまでそこで泣いていた。
 やがて空っぽになって、寒さに耐えられなくて、
 靴を履き直して、わたしは真夜中の町をふらふら歩いた。
 持ち物なんてないに等しいなか、ポケットのなかにキャンディを持て余していた。
 食べる気になれなかった。
 食べ終えるまでは死ねないのに。
 いまは良いや、なんて言って。
 苦しさに、何度も道端にうずくまる。
 それでも、寝静まった町には誰もいなくて、望み通り、誰からも怪しまれないのだ。
 ひとり、歩き続けた。
 かつての思い出の場所をいくつも巡った。
 そのうちに朝がきて、白みだした空を、わたしはバス停に座ってぼんやり見上げていた。
 ぽつぽつと、早朝出勤のサラリーマンがやってくる。
 疲れきって呆けたわたしを、みなが遠巻きにした。

 ICカードの残金だけを頼りに、わたしはいったいどこへ行くのだろう。
 死ねなかった。また明日がきた。寒い。お金がない。
 さいあくだ、その五文字を思い浮かべるのがやっとの頭で、始発の走行音を耳にした。
 流れに任せてバスへ乗り込むと、記憶通りの車内アナウンスが、響いた。



2018年11月30日

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